yhs 『しんじゃうおへや』

日時:2016/02/10(水) 開演19:30
場所:琴似コンカリーニョ http://www.concarino.or.jp/
料金:前売・当日3000円、リピーター割引2500円

 札幌演劇シーズン(http://s-e-season.com/)参加作品の yhs
(http://www.yhsweb.jp/)『しんじゃうおへや』を見てきた。

 死刑囚と刑務官などを登場人物に、人を殺すということ、生きるということ、迫りくる死に対して何を思うかなどを問いかける緊張感に満ちたステージで、食い入るように見てしまった。

 序盤では、仕事とはいえ刑を執行するため人を殺さなければならないために苦悩する刑務官たちを、恋人(だったかな?)を事件で殺された過去を持ち執行に積極的な新人と対比させて描いていた。ところが、刑の執行に熱心なはずの新人がボタンを押せば絞首刑のための装置の足元の床が開くはずなのに実際には底が開かなかったようなシーンがあり、はたして新人刑務官は執行ボタンを本当に押せたのかが疑問が残るようになっていた。
 その後、死刑囚への刑の執行が、本来の回路ではうまく作動しなくて予備のスイッチを使って行われたとういうことがテロップにより示され、以降は死刑囚が主な登場人物になる。
 死刑囚は以後のシーンで、刑務官、牧師、刑事、弁護士、自分が殺した女性たちと合い、さまざまな想いがあることを示してゆくが、これらは刑の執行がテロップされた後のシーンであり、刑の執行の際に起きた不具合のために呼ばれた電気工事屋が同じシーンに登場したり、なくなったはずのボタンが床に落ちていたりした点から、時系列を戻してシーンが繰り広げられてるのではなく、刑の執行の際に走馬灯のように想起されたか、もしくは死んだ後の霊魂になってからの追憶であったかのように思われる。ラストシーンで死刑囚に対して、今がどういう状況なのかをある登場人物が、天井にある落下口を指し示したことからも、刑の執行後であることが示されていたように思う。

 劇中では、死刑囚は人の価値は持っているお金で決まるような認識をしていると思われる所があり、自分が殺した女性の顔は覚えていないが、奪ったお金の金額は正確に覚えていた。お金を持っていないということは生きる価値がないというような価値観を持っているかのように描かれていた。
 また、ただ刑の執行を待つことに耐えられず、どうせ刑が執行されるなら早く執行して欲しいと求める場面があり、刑務官に人として生きるということはどういうことか説得される場面もあった。
 死刑が確定した者は人間であることを否定されたのか、それともやはり死ぬまで人間なのか、この辺が死刑囚や刑務官にとっての苦悩の元になっているのではと思われる。

 いろいろ考えされるサスペンスでとても興味深かった。